コンシェルジュ通信Vol.72:紀尾井町の由来の地

千代田図書館9階のコンシェルジュブース前には、地図が描かれたカーペットがあります。

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立ち止まってご覧になる方も多いこの地図は、江戸時代の『文化改正御江戸絵図(ぶんかかいせい おえどえず)』を基にしたもの。千代田区の部分を引き延ばしています。地図には大名家の家紋もそこここに描かれ、このあたりは江戸城を中心に大名屋敷が多かったことが分かります。

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▲コンシェルジュブースから見た古地図

千代田区にある町名の一つ「紀尾井町」は、大名家の頭文字が由来という話を耳にしたことがある方も多いのではないでしょうか。「紀尾井町」の名の由来の地をたどって、四谷駅から赤坂見附駅まで歩きました。

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四ツ谷駅を降り、まず四谷見附橋を渡ります。

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四谷見附橋はJR中央線、総武線の上を渡る陸橋で、橋の東側は千代田区、西側は新宿区の区境にあります。

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橋に架かるガス灯も目を惹きます。このデザインは、初代の四谷見附橋にあったものを引き継いだそうです。色々調べてみると面白いかもしれません。

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橋名板には「四谷見附橋 大正二年九月成」と記されています。

このまま四谷見附橋から、上智大学がある「ソフィア通り」へ進みます。ソフィアとはギリシャ語で"最上の叡智"の意味で上智大学の別名だそう。春になると桜が綺麗な通りです。

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右手には江戸城外郭の遺構である土手があります。江戸幕府が土手に松や杉を植栽し、その後明治になり桜が植樹されました。区内の桜の名所の中でも、松の緑に桜が映えるスポットです。

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▲ソフィア通りを進むと、紀尾井町の「尾」を発見

上智大学とコンサートホール「紀尾井ホール」の間に「尾張名古屋藩屋敷跡」の石碑を見つけました。尾張名古屋藩徳川家の中屋敷はこの辺りにありました。

「尾張名古屋藩屋敷跡」の石碑から数分歩くと、ホテルニューオータニです。紀尾井町の「井」はホテルニューオータニの敷地内、庭園の入口に「近江彦根藩井伊家屋敷跡」の石碑で見つけました。ホテル一帯はかつて彦根藩井伊家の中屋敷があり、池泉回遊式の日本庭園は400年以上の歴史があるそうです。

次に、ニューオータニを右に眺めつつ「紀尾井坂」を下ります。

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▲紀尾井坂を下る。右手はホテルニューオータニのロータリー

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紀尾井坂の坂下から振り返ると、急な勾配があります。このまま紀尾井坂を下り、清水谷へ向かいます。

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▲つつじが綺麗な紀尾井町通り

紀尾井町通りを進むと、緑の濃い静かな公園がありました。心字池や憩いの広場、大久保利通哀悼碑がある清水谷公園です。公園の案内図から、大久保利通がこの地で暗殺されたとのこと。通称「紀尾井坂の変」として知られるこの事件は、実際は紀尾井坂ではなく、この清水谷が襲撃された場所ということが分かりました。

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▲紀尾井町についての案内板

思いがけず明治の歴史に触れた清水谷公園を後にし、外堀通りや首都高で赤坂見附駅の方へ向かいます。

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▲4月桜の時期に撮った写真

最後に、「紀伊和歌山藩徳川家上屋敷跡」の石碑を見つけてゴール。これで、紀尾井町の由来となった紀伊和歌山藩徳川家尾張名古屋藩徳川家近江彦根藩井伊家3つの由来の地巡りは終了です。

江戸城の外堀「弁慶濠」にかかる弁慶橋を渡って、赤坂見附駅へと到着。四ツ谷駅から赤坂見附駅まで、ゆっくり散策しながら約30分の行程でした。


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今回、「紀尾井町」の由来となった場所を巡りましたが、歴史深い地である事を改めて実感しました。まだまだ歴史を調べてみると面白そうなルートです。ぜひ、図書館の資料で千代田区の歴史を調べてみてはいかがでしょうか。

Posted at:11:40